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父が亡くなりました。72歳でした。よくわからないのですが、「享年」ってので言うと73歳になるらしいです。

2009年の11月に膵がんの手術を受け、そこから4年と8ヶ月くらい、その間にできた4人の孫に囲まれ、力いっぱい楽しんで生きたと思います。

癌の転移が広がり、最期のときまであと数日と診断され、自宅での介護も限界になって、緩和ケアの病院に入院したのが7月中旬。

母曰く、父も自分の残りの命をある程度知っていたようで、7月末に1歳になる僕の娘の誕生日を祝ってあげれないことを非常に残念がっていたそうです。
本当に孫たちが大好きな父でした。

父はよく喋るタイプではなく、どちらかというと背中で語る感じの人でしたが、そのかわりに飲んでるときは必要以上に熱くうるさく語る人でした。
今、僕が人として、社会人として、一家の大黒柱として大切だと実感していることのほとんどは父が教えてくれました。
例えばこんなこと...


  • 家族や兄弟を思いやる気持ち
  • 周りの人への感謝の気持ち
  • 弱きを助け強きをくじく
  • 郷土を愛する心と沖縄の素晴らしさ
  • ゴミをそこらへん(道ばた的なところ)に捨てはいけない

こどもの頃からうるさく言われてきたことばかりですが、社会に出て、仕事をして、家族やこどもを持ってはじめて理解できたことがたくさんあります。というか、ほとんどがそうです。

「弱きを助け強きをくじく」なのか、反骨精神なのか、ただのひねくれ者なのかわからないのですが、父の性格をあらわすエピソードがあります。

父自身ももう残りの命が少ないと知っていた2ヶ月ほど前、テレビで天気予報士が「あいにく明日は雨で...」と言ったことに反応し、母にテレビ局に電話させ、「雨がさもみんなにとって悪いことであるかのように言うのはいかがなものか」ということを言ったそうです。(実際はもっと粗い言葉だったと思いますが...)
母に聞くと、昔から父は雨が降ることで農作物が育ち、農家の人の仕事が成り立ち、自分たちの食生活も豊かになっているのに、雨を悪者扱いするというのはおかしい、と憤っていたそうです。
ホンマにややこしい人です。

また、幼児が強姦や虐待によって命を奪われるような事件があると、「俺がこの子たちがこの世にいたことをおぼえておいててあげてないと」と言って、新聞記事をスクラップしていました。

人から見ればだいぶ変わった人かもしれませんが、僕はそんな父からいろいろなことを学びました。

上記のようなこと加え、父は、余命を宣告されてから亡くなるまで、そして亡くなってからもいろいろなことを教えてくれました。


  • 父にとって仕事(建設業)は生き甲斐であり、人生のハイライトだった(っぽい)
  • 兄弟がいることの心強さ
  • 孫の存在の大きさ
  • お通夜・お葬式には結構お金がかかる
  • 家族が危篤状態だからといって、ずっと気が張りつめていたり、気分が落ち込んだりしているわけではなく、意外と冷静で、冗談が言えたり、鼻歌を歌えたり、エロいことを考えたりできる

癌患者の多くは、終末期に「せん妄」という意識混濁による幻覚や錯覚をみる状態になるそうです。
父も大小程度の波はありましたが、せん妄状態が続きました。

せん妄状態のとき、父が何度か僕や弟のことをかつての部下や後輩と思い込み、「みんなの分のコーヒーは?俺のは?」と言いました。
父と一緒に働いたことのある弟曰く、父はよく仕事の休憩時間に部下や後輩に缶コーヒーを奢っていたそうです。

あるときは「アチチチ!」と手をぶるぶる振ってみせ、母が「父さん、どうしたん?」と尋ねると、父は「溶接をしていて火傷した」と答えたそうです。

またあるときは、仕事中の僕に電話をかけてきて、「早く現場に来い。現場にこい」と言いました。

他にも、幼少時代に戻ったのか突然ウチナーグチ(沖縄の言葉)で話し出したり、父が大好きだった酒場にいるつもりらしく、「マスター!」と叫び出したりすることがあったのですが、でもやっぱり仕事に関するせん妄が一番多かったように思います。

僕ら兄弟はそんな父の様子をみて、父にとって仕事というのは、食い扶持であるのはもちろんのこと、生き甲斐であり、誇りだったんだと知りました。

僕は幸いなことに、父が息をひきとる瞬間に立ち会いました。
そのとき、息をひきとった父の腕の上で涙を流す母の姿を見て、父は僕の父である前に、母にとって最愛の人であるとうことを実感しました。
僕の父であるというストーリーの前に、母との出会い、愛を育み、ひとつ屋根の下で暮らし始めるまでのストーリーがある。
その前には、沖縄の伊是名という小さな島から本土にやってきて、僕らがそうだったように、社会にもまれ、悩み、夢を見て、恋をして、という青春のストーリーがあり、そのもっと前には、お姉さんにおんぶされて防空壕に逃げ込んだ赤ちゃんだった頃のストーリーがあり、そのもっともっと前には祖母のお腹の中にいたんです。
僕が知っている僕の父としての35年だけが父の人生ではなく、僕が知るずっとずっと前から、たくさんの苦労や努力や楽しさを積み重さねてきた、誰の人生とも比べることができない尊い72年という時間が父の人生なんだということに、はじめて気づきました。

そんな父の、汗や涙にまみれ、愛に溢れた、素敵でカッコいい人生は、医師も驚く頑張りをみせ、宣告された余命を何度か裏切り、僕の娘が1歳になった日の朝、静かに幕をおろしました。

僕は「理津の誕生日まで頑張ってくれたんやね」と言っていましたが、母は「お父さんは寂しがり屋やから、みんなにおぼえててもらえる、りっちゃんの誕生日を自分の最後の日にしたんちゃう」と言っていました。
オカンが言うなら間違いないわな。

父さん、72年間、ホンマにお疲れさまでした。
ありがとうございました。
父さんのこどもで本当に良かったです。
また会いましょう。

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父の腕には、お気に入りのAIR JAMリストバンド(笑)

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