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昨日、高校時代からの友人のお母さんのお通夜にいってきた。そのお母さんは僕のおかんとほぼ同じ歳だった。
こんなふうに簡単に一括りにまとめてしまってはいけないのかも知れないけど、僕らはもう30歳で、自分の周りの大切な人がこの世を去っていくことが多くなってきて、そりゃもちろん悲しいけど、それでもなんとかそれなりに受け入れられるようになってきたと思う(もちろん受け入れられないようなシチュエーションもある)。
そんなふうに良いことなのか悪いことなのかわからないけど、ある種「死」が乱暴なまでに生活に割り込んでくることにちょっとづつ慣れてきてるのだけれど、それでもやっぱり大切な人を亡くした友人にどう声をかけてあげればいいのか、どう力になってあげればいいのかがわからなくて、いつも歯がゆい思いをする。

僕が毎回戸惑うのは、自分がまだ当事者になってないってことも大きな要因だろう。一応自分だったらどうしてもらいたいんだろう?僕だったらどうされたくないんだろう?って考えるけど、結局当事者や状況次第なので、どうすればいいのかなんてわからない。大切な人はどういう経緯で亡くなったのか?友人は誰にでも悲しんでいる姿を見せれる性格か?不自然に励して余計に悲しみを煽らないだろうか?本当に難しい判断である。
僕の場合だと、どんな状況においても「かわいそうに」と思われるのは好きじゃないので、いつも通り自然に接してほしいかな。顔見せてくれて、「また飲もうや」って言ってくれるだけでいい。だからそれが正解なのかわからないけど、大抵の場合はあまり気を遣わずに普段通りに接するようにしている。
昨日一緒にお通夜に向かった友人たちも僕と同じく不器用な人間ばかりだったので、僕と同じように考えてか、僕と同じように友人に声をかけていた。
どうしてやるのが一番よかったんだろう。

お母さんを亡くした友人と少し話した。普段通りの会話。友人の仕事のこと。
その友人というのは天然のアーティスト気質で、どうみても社会のシステムに収まるような性格ではない。だからそんな友人が地元尼崎の会社でまじめに働いているという話を聞いたときは、僕は少し驚いた。これが大人になるってことなのかなぁと安易に自分を納得させていた。
しかしそんな理由ではなかった。友人が言った。
「近い場所で働いて頑張ってるところを、おかんに少しでも見せてあげたかってんけどなぁ」。
そのときは「そっかぁ」としか言えなかったけど、お通夜の帰りにみんなで飲んでたときも、家に着いてからも、今日になってもずっと友人の言葉と顔が浮かんでくる。
僕も今ずっとどういう道へ進むかを考えていて、自分の親というのは必ず思案材料に入ってくる。だから、実際に友人がどれくらいの決意でそうすることを選んだのかはわからないけど、やっぱりどれほどの思いで地元尼崎で普通に働くことを選んだのかはすごくわかる気がして、胸が苦しくなる。

きっと友人の思いはお母さんに伝わっていた。
きっと安心して旅立ったんだ。

おばちゃん、お疲れさまでした。
そして、ご馳走さまでした。おばちゃんの作ってくれたそば飯、おいしかったです。

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